風の村花日記

生活クラブと私 8

 1980年の直接請求運動、85年の㈱手賀沼せっけん設立が、生活クラブ生協千葉にとって大きなエポックになったことを前回書いた。この時期、私は西村光夫という男に出会っている。彼は、「柏寺子屋」を主宰していた。そこは、いわゆる「つっぱり」少年のたまり場だった。釜ヶ崎や山谷で日雇い労働者の支援活動などをしてきた西村が、荒れる子どもたちのたまり場を作ったのだ。
 彼は、子どもたちが自ら働く場を作りたいと言った。今でいえば「起業」だ。私は、当時注目を浴び始めていた関西リサイクル運動市民の会が行なっていたリサイクル事業が面白いのではないかと思った。同会の主催者、高見裕一氏は、のちに日本リサイクル運動市民の会を創り東京進出、有機農産物の宅配組織ラディッシュボーヤを創立、さらには衆議院議員になるなど、一世を風靡した人だ。面識はなかったが連絡を取り、当時の本拠地、神戸で話を聞くアポを取った。
 彼らは、スーパーダイエーの屋上などを借り、フリーマーケットを主催する。私たちは、生活クラブの組合員の人たちなどから無料でいただいた出店品をワゴン車の荷台に詰め込み、土曜の夜に柏を出発、日曜の朝に西宮(だったと思う)のダイエーに到着、フリーマーケットに体験出店し、終了後、高見氏のレクチャーを受け、その夜に神戸を出発、月曜の朝に柏に戻るという超ハードスケジュールで、市民リサイクル事業を体験した。何しろ、同行メンバーは西村と私を除けば、ほとんど暴走族の現役かOBだから、荷物満載のワゴン車をとんでもないスピードで操る。死ぬかもしれないという恐怖を感じたことを、今でも忘れない。
 そのメンバーが、「ユーズリサイクルセンター」(名称は、私の案が採用された)を設立、リサイクルショップを開店し、便利屋も始めた。今も事業を続けている。
 西村は、この設立にかかわったが、のちに、JFSA(日本ファイバーリサイクル連帯協議会)を設立し、中古衣料をパキスタンに輸出し、スラムの子どもたちの学校運営を支援する活動を現在も行なっている。
 そして、「柏寺子屋」に出入りしていたツッパリ少年たちが、今、生活クラブ生協や社会福祉法人生活クラブの幹部職員になっているのだ。
 西村との出会いは、私のそれまでの価値観を大きく揺さぶった。
長くなるが、一つだけ西村にまつわるエピソードを紹介しよう。
 「寺子屋」に出入りするある中学生が、教師に殴られたと言う。西村は、その子を連れて教師に抗議に行った。その子の話に基づいて教師に抗議を続けるうちに、後ろにいたその子が、西村の袖を引き、「西村さん、もう良いよ」と事を収めようとする。「何でだよ」と返すと、教師が殴ったというのは嘘だったと言うのだった。
 のちに私にその話をした西村は、彼にとっては、自分に「教師が殴った」と訴えたのも、ある意味、彼の真実であり、教師の前であれはウソだったと言ったのも彼のもう一つの真実だ。自分は、彼のどちらの真実にも付き合うと語った。30年近く経った今も、忘れることができない。
 
by toruikeda | 2010-12-15 19:51
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社会福祉法人生活クラブ理事長の日記

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