風の村花日記

生活クラブと私 2

 生活クラブ生協東京に就職したのが昭和46年の11月、51年4月に千葉に異動したので、東京で働いていたのは4年半くらいだったことになる。
 私の職場は砧支部、世田谷区の西部地域と調布市、狛江市が担当だった。配達が主だったが、ほかに「拡大」という仕事がある。組合員の勧誘活動のことだ。各戸にチラシを撒き、その後、戸別訪問をして生活クラブへの加入を勧めるのだ。私はこれが大の苦手で、ピンポンと呼び鈴を押して留守だとホッとしたし、インターホン越しに「間に合ってます」と言われると、次の家に行くのが嫌でたまらなくなるという状態が長く変わらなかった。生活クラブでは、職員だけでなく組合員リーダーも「拡大」に参加する。組合員リーダーの人たちが無償で「拡大」活動に取り組む姿には、本当に頭が下がった。現在でも、組合員による拡大活動は続けられている。

 私が就職して1年くらい経ったころだったと思うが、職員評議会という組織ができた。職員の多くがこの組織に加入した。しかし、私はこれに対抗して少数の仲間と労働組合を結成した。創立者でもある当時の理事長をはじめ、理事者の経営方針に反発を強めていた頃であり、職員評議会はいわゆる「御用組合」と考えたのだ。
 これ以後、早朝の牛乳配達、日中の配達その他の業務をこなし、夜は残業の合間を縫って労働組合の活動に多くの時間を費やした。夜中に牛乳配達のコースをマイカーで回り、労働組合の主張を書いたチラシを組合員宅に配布し、それが終わってから、早朝、同じコースを今度は牛乳を配達して回るということも一度ならずやった。牛乳配達の際に労組のチラシをすることは、業務中に組合活動をすることになり、それをやれば懲戒処分を受けてしまうだろうと考えたのだ。しんどかったが楽しい日々であった。
 当時50人以上の職員がいたと思うが、労働組合の組合員は10人程度、圧倒的に少数派であり、私はその副委員長だった。

 そんなわけで、生活クラブ東京では、私は反主流派のリーダー格であった。だから、理事長に呼び出され、理事長室で「千葉に行ってくれ」と依頼されたときは、本当に驚いた。晴天のへきれきとはこのことだった。 
by toruikeda | 2010-03-24 23:40
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社会福祉法人生活クラブ理事長の日記
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